人生の目的-2


おそらく日本人の大半、いや世界中の人々の大半の人が持っている思考回路は「原因究明型の思考」だと思う。

「原因究明型の思考」・・・・・同じことを思っている人もいるかもしれないがこれは完全に自分の造語である。

「原因究明型の思考」とはどんなものかというと、質問をして可能性をそぎ落とし、原因と思われる事象、可能性だけに課題や考える範囲を絞っていく、そして問題の本質に近づくことだ。

たとえば自分が使っている何かに問題が起きたことを想定してみる。 ここでは見ているテレビが突然見えなくなったことを想定してみよう。

考えられる原因はいろいろあるだろう。

  • 停電になった
  • チャンネルボタンに触れて別のチャンネルになった
  • ボリュームに触って音が小さくなった
  • アンテナの配線が切れた
  • ビデオのケーブルが外れた
  • 予約録画が始まった
  • テレビ自体が壊れた
  • 放送局がトラブって送信が停まった

などなど。 そこでそれぞれの原因を切り分けるためにいろいろと試行錯誤を繰り返す。 停電かどうかを確認したり、チャンネルやボリュームの調整をしたり、アンテナの向きや接続を確認したり、etc.

これらは原因を特定し、絞り込み、対策を取りやすくするために考えられる可能性をあげ、その中から可能性のないものをどんどん切り落としていくやり方である。普段の生活で身についたごく普通の思考である。

しかし、我々人間はとかくこの思考回路に縛られ、これが常識で、まっとうな考え方で、すべての考え方に適応されるべきものだと思っていないだろうか? 私はそれはほんの一部の考え方でしかないということに最近気が付いた。

決してこの「原因究明型の思考」を否定するつもりはない。科学技術の進歩や普段の仕事での課題解決、一番早く原因にたどり着くには必要な思考方法である。 どんな日常にもいろんな問題は起きる。 一番早く原因にたどり着いて解決を図るための思考。 この「原因究明型の思考」はほとんどの仕事の中で必要なスキルである。

でもそれだけで本当に良いのか? 我々は意識している、していないによらずこの思考回路ですべてを考えていないか?

例えば、その思考回路で自分で自分の固定観念を作り出していないか? 自分の可能性を限定していないか? その道しかないと思い込んでいないか?・・・・人間はいろんな可能性を持っているはずだ。自分で知っている自分という殻に閉じこもろうとしていないか?

自分が知っていて他人も知っている自分、自分が知っているが他人の知らない自分、自分が知らないが他人が知っている自分、自分も他人も知らない未知なる自分、未知なる世界にまでに可能性は広がっているのに、自分は技術屋だとか、自分は営業だとか、自分の得意な分野はどこで、中でも特にこんなことが好き、だから自分に向いている仕事は何々・・・・・

自分という可能性を「原因究明型の思考」で限定し、固定し、可能性をそぎ落とし、その狭い領域の中で自分というものを探していくのは残念なことだと思う。 おそらく、この思考回路は幼いころから宿題を出され、学校のテストで問題を出され、それに忠実に回答していく繰り返しの訓練から生まれたものだろう。 だからこの与えられた課題に対して的確に、短時間に効率よく原因を究明できる「現因究明型の思考」回路ですべてのことを考えることに何の違和感もないのだ。

むしろ、すべての可能性を否定せず、削り取らず、ありとあらゆる物事をまず自分のテーブルに乗せてカオスの状態を作り、増大させ、拡大し、その状態を楽しみ、自分の本当の姿を探していく、「原因究明型の思考」とは全く逆の「絞り込まない拡大思考」の可能性を考えてみるべきではないかと気が付いた。

そこにこそ、おそらく自分という姿、自分が求めている何かがあるのではないか? 少なくとも「絞り込むよりも、何かを見つけられる可能性は高い」と思う。

 


JA1CTV
人生の道

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