人生の目的-3


今日は少し違う角度からの人生の目的。

私の会社のことでも地域のことでもありません。個人的に所属しているある団体およびその社会の話です。

自分の意見や自分の考えをそのまま言葉にすることを否定的に考える人がいます。特に日本人には多いと思っています。これが正しいとか正しくないとか話すことはあまり意味がないと思っています。みんな自分の価値観に基づいて生きているわけですから、それはあって当然だと思います。

よく聞く言葉として、「大人なんだからもう少し我慢したら」とか「感情を表に出すのは社会人としてどうなの?」というようなことを耳にする場面があります。

これを私は典型的な日本人的思考と本当は言いたいのですが、その一言で片づけるのはあまりにも乱暴なのでやめておきます。

私が最低限、この場所で言いたいのは何かに対して「感情」を持つことは人間として素晴らしいことだと思っているということです。自分の考えや信念、こうありたい姿があるからこそ、そのような感情が生まれます。 日本には特に感情を押し殺すことが大人だとか日本人的美徳だとか考える人がいます。 こういう私も時にはそのように思うことも多くあります。でも本当に感情を押し殺すことが美徳なのでしょうか? それが自分の求める新らしい世界につながるのでしょうか? 何かを形作っていくのでしょうか? 私は逆だと思います。

「我慢をしなさい」ということは自分も子供のころから言われて育ちました、自分の子供にもそう教えてきました。でも明らかにこれはおかしいと思うこと、自分の信念と違うこと、数々の問題が明らかになっている状況であっても、それに対して自分の意見を言えない、言うべきでないというのは違うと思います。 自分の感情を殺し何かに従い、何かに流される、事なかれ主義が本当に自分に正直に生きていることなのでしょうか? そのような世界から自分の望ましい方向への前進、改革は生まれるのでしょうか? そのような状況から問題は本質的に解決するのでしょうか?

開かれた組織には風通しの良い環境が必要です。言いたいことも言うな、発信したい情報を流すな、考えていることを改めろというのは思想の抑圧であり、少なくとも本来の自分の生き方、人生の目的に従う生き方ではないと思っています。

何かに従うことを選択するのはその人の自由、「それは違う」とその人に考えを押し付けるつもりは全くありません。 私も内容によってはそのように何かに従って生きていくこともあるでしょう。 しかし、それが自分の好きな世界や自分の目指す世界であればなおのこと私はこう問いたいと思います。

「なぜ自分の好きなことなのに我慢する必要があるのですか?」

そしてもう一つ、繰り返しですが、何かの事象に対して「感情」を持つことは素晴らしいことですし、さらに、それに対して自分の意見を言えることはもっと素晴らしいことです。

 


JA1CTV
人生の道

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です